2022年卒業生へ③
31.今村美樹雄(8)
組織とその活動を承継してきた4回生へのはなむけに
4年間の熊本大学應援團リーダー部での活動たいへんご苦労様でした。私の代は同期が8人いましたし、先輩も後輩も多くて濃厚な活動が出来ていた時代でした。それに比べて皆さんは部員もきわめて少なく、その上コロナ禍の中で半分を活動したわけで、通常では想像できない活動状況だったと思います。そのような状況の中で應援團とリーダー部を承継していただいたことにOBの一人として感謝いたします。
私は大学に入学して今年で半世紀が経過しました。入団当時はひ弱で、武夫原での練習・立田山や武蔵塚へのランニング・阿蘇遠歩などしんどい思いをしましたが、何とかついていけたことで、その後の人生に役立ちました。長い会社員生活の中でも色々な苦労や困難を経験しましたが、應援團時代の剛毅朴訥・不屈不撓の精神はこころの支えになりました。
これから皆さんはいずれかの組織の構成員になると思います。組織は属する構成員の考え方・フィロソフィで方向性が決まります。幾多の困難を経験してきたからこそ出来る精神の持ち方があります。ぜひとも前向きな精神と考え方を持ち、明るい人生を歩んでください。
皆さんのこれまでに感謝するとともに、これからの活躍を祈念申し上げます。
32.天本真臣(18)
ご卒業おめでとうございます。そして大変お疲れ様でした。皆さんが一回生だった頃、演武伝達練習を通じて武夫原や小体育室で一緒に汗を流しから、およそ3年…。真夏の暑い日、爽やかな秋風の中、また床が冷たい小体育室の中での充実した時間を皆さんと共有できたのは、私にとって財産になりました。その皆さんが卒業かと思うと感慨深いものがあります。
幹部になって、これから自分たちの活動をして行こうという時に、コロナ禍によって活動そのものを制限されるという、歴代の誰も経験したことのない状況の中での応援団生活は、不完全燃焼だったのではと推察します。卒業前に皆さんの演武、雄姿を披露できる機会があればと思いましたが、それも叶わぬ状況になり残念です。しかし、応援団生活で得たものが夫々に何かあると思いますので、今後の人生の中で役立てていって欲しいと思います。今後は、OBの一員としてお付き合いのほどよろしくお願いします。
(近況報告)
仕事は相変わらずですが、趣味として一週間ほどの一人旅を毎年楽しんでいます。今年は、1月に東北地方に行き、いわゆる「雪見酒」「雪見列車」を味わってきました。雪が降りしきる中を走る列車の車窓から、一面真っ白な雪景色を眺めながら飲む酒は、九州に居てはなかなか味わえないものだと思います。
1月16日の未明、盛岡市内に宿泊していましたが、「津波です!避難してください!」との警報でたたき起こされました。「内陸部なのに?」と思いつつTVを点けると、例のトンガの海底火山爆発により、岩手県沿岸に出された警報でした。幸い若干の予定変更で済みましたが、津波警報、暴風雪警報あり、コロナ対策にも十分配慮しつつ、こそこそと一人を満喫した旅でした。いろいろとハプニングもありますが、それを含めて元気なうちに一人旅を楽しんでおこうと早くも次回の計画を立てているところです。
33.茅畑篤(5)
4回生諸君、ご卒業おめでとうございます!
コロナ騒動で何とも落ち着かない状況の中でありながらも、これもまた現実の有り様に他ならず、しっかりと克服して、確かな一歩を力強く踏み出していきましょう。小生は卒業して丁度50年になります。実に様々なことがありました。まさしく、人生山あり谷ありで、いま振り返ってみると平坦な道など何処にも無くて、それがまたより大きな生き甲斐にもなっていたことに気付きます。熊大応援団の濃密な4年間で心身両面を鍛えられ培われた基礎体力が、随所で突破力・推進力の根源となってくれたことでした。
いま、諸君の往く手・将来には無限の可能性がギッシリと用意され、扉を開け放して待っていますね。力一杯の奮闘を祈ります。団員であったことの幾多の体験や想いが、何れこの後の人生を支えてくれます。
さてさて、小生退職前の4年間は母の介護と会社員の二足の草鞋を履く日々でしたが、66歳で退職して此の方、山陰の山間僻地で実家の家業を承継して暮らしています。
この冬は殊のほか寒さ厳しく、連日のように日中も零下の外気温で、夏向きの田舎家で鼻水を垂らしながら過ごしておりましたが、漸くにして裏庭や山蔭の他は田畑の雪も消え、春草の緑が萌え始め、木々の新芽も目につく時節になりました。
それにしても、この2年はコロナに翻弄され、天然のゼロ密地域であっても三密対策に明け暮れ、うんざりです。とりわけ、孫たちに会うことが叶わず残念至極です。もっぱらテレビ電話のやり取りですが、抱きしめてやることが出来ません。孫は目に入れても痛くないと思います。
コロナに、めげてばかりは居れないので百姓仕事に打ち込んでいます。昨年は念願だった米作りに挑戦しました。我が家の田圃は貸しているので、標高450mにある友人の棚田約4アール(4畝)を借りて完全無農薬・無肥料の米栽培。鎌で刈り取ったハゼ干し米は絶品に仕上がりました。今年は頼まれて棚田2枚を追加し、10アール(1反)近い稲作に取り組みます。また、我が家の耕作放棄畑地を再開墾して、蕎麦、丹波黒大豆の他に大根・人参・牛蒡・白菜・キャベツ・トマト・エンドウ・キュウリ・ナス・カボチャ・サツマイモ・ジャガイモ・里芋等々30品目余りの少量多品種野菜類を何れも無農薬・無肥料で、土作りから汗を搔いて取り組んでいます。今年は新たに大豆と小豆の栽培に挑戦します。時々、浜田高校時代の友人が「農業体験」したいと言って手伝いに来てくれますが、何せ昔ながらの農工具を駆使しての人力頼みなので限界を感じ、昨年は機体重量3t未満の車両系建設機械特別教育を受け修了証を取得しました。一昨々年は原木椎茸の栽培を思い立ち、原木伐採から種菌駒打ち、仮伏せ、榾場(ほだば)へ本伏せをして今春は一部収穫が出来つつあります。嬉しいことに最高級品の「天白冬菇(てんぱくどんこ)」が顔を覗かせています。
幼馴染から、お気楽な趣味の百姓と揶揄されながらも、子供だった頃の村の農事風景を思い出し出し、自給自足を楽しんでいます。
商売の酒類小売業はさっぱりで、もっぱら自家消費の有様。みなさん、美味い島根の地酒はいかがですか。地元契約栽培の酒米と清冽な水で醸し出された絶品ですよ。
その他、ブルーベリーや花梨、柿、梅、天然山葵などがあって、夫々ジャムにしたり干し物、果実酒、漬物にしたり、害鳥獣との闘いもあったり等々、四季の移ろいに遅れたり早まったりで、てんやわんやの田舎暮らしを送っております。
近頃は瞬発力と持続力が、すっかり蔭を潜めつつある一方で妙に気力ばかりは旺盛で・・・。まあ、そうこうしている内にグッタリするのでしょうかねえ。
この先は、まだまだ道は険しくもあり遠くもあることかとは思いながらも、チョイとは老獪、ええ加減さに拍車が掛かり、山はより低く、谷はより浅く設えてしまいそうな予感がしております。すべてのことが自己責任で終結しますから、初めて経験するノンストレスの日々になっています。
海釣りは、ヒラマサや真鯛が首を長~くして待っているとは思うのですが、この2年余りは全くご無沙汰です。果たして、20㎏前後の釣り道具一式を担いで渡船の乗り降りが出来るでしょうか!?
会員の皆さんと、なかなか一堂に会することが難儀な状況は残念の極みではありますが、お会いできる日を心待ちにしながら、どうぞご健勝にてお過ごしになりますよう祈っております。
34.秋田 聖(27)
卒業おめでとうございます。
1学年にリーダー部3名の入団というのは、復活した梅木君の代以来かと記憶しています。皆さんが1回生の時に中村団長(当時)と共に熊大応援団の演武のほぼ全てを、武夫原や体育館でOBが交代で伝授していった日々を昨日の事のように覚えています。OBとしては押しつけがましいような気も少しありましたが、50周年の映像を見た君達が是非やってみたいという半ばお世辞かとも思いながらも、教える以上は中途半端にするわけにはいかないと、精一杯教えることで、私も何か言葉では表せない不思議な感覚を持つことが出来ました。中でも、第一応援歌必勝の歌を復活出来て、前回のOB会で披露してくれた時は、よく頑張ってくれたと感動、感銘しました。
この2年はコロナウイルスの長期に渡る流行と未だに収束が見えない状況で、学生生活の後半は本来の学生生活も、応援団の活動も思うような活動が出来なかったかもしれません。これからは卒業後の長い長い人生が待っています。この4年間の経験は必ず役に立つ時が来ます。辛く苦しい時が必ずあるので、その時はどうかこの4年間の事を思い出して、必勝の歌でも歌って乗り越えてください。
「お疲れさま」と乾杯の一つも出来ずに送り出すのは寂しい限りですが、このご時世、致し方ありません。ただ、これからはOB会の一員として現役をあらゆる面でサポートしつつ、OB会や懇親会が開催された折には、近況など語りあいましょう。今度会うときにはきっと、「おーそうか」と新しい生活の話を聞かせてくださいね。 現役生活を称え、そしてとこれから訪れる波乱万丈の輝かしい未来にエールを送ります。
OBの皆様へ近況報告します。
2020年4月下旬に福岡県京都郡苅田町に転居しました。
応援団の聖地みやこ町の隣町で、まさか京都郡に住むことになるとは想像すらしていませんでした。コロナ禍で熊本に行く機会もなくなり、21年5月に1年半ぶりに熊本に行って、「1年以上熊本に行ってないのは入学以来30年無かった」事に気づきました。50歳になり、まだまだ気持ちは若いつもりでしたが、月日の速さを感じるようになりました。コロナが収まりまたあの頃の様に熊本で皆様にお会いしましょう。
35.福岡潤(6)
来し方そして行く末、変わらぬモノ
2016年(平成28年)5月、50周年記念OB会誌が発行されて早や6年が経過しました。近年は新型コロナウィルスで日常生活が根本から変わり、不便な学生生活を余儀なくされた現役諸君の戸惑いは如何ばかりかと察します。団生活において日々心を砕かれ精進されてきたことに対し心から感謝の意を表します。
そして、社会に出られても、それぞれの専門領域で知識の修得研鑽に努めグローバルな視点を磨かれてきたことを、遺憾なく発揮されることをお祈りします。
さて、私が応援団を愛して止まないのは、50数年前に感じた「温もり」が未だに色褪せないことです。学園紛争の最中に入学しましたが、入学式もなく一学期は5時からの応援団の練習のみ、練習といっても武夫原でのランニング、立田山の階段でのうさぎ跳び、そして市街地に向かっての発声練習…よくやったなあ、と言うよりいつも一生懸命だった、真剣だった。
練習後は、毎晩のように誰かの下宿先で時間を忘れ食べ飲み語り、遂には酔い潰れて泊まったりしました。そういった無茶振りが今の私を形成したと思います。
私は、2015年3月に母の介護で一人、愛知県から鹿児島県に戻り、その母は2019年11月に他界しました。その後現在まで自由に行き来が出来ない状態が続いています。初めての一人暮らしは、戸惑いの連続でしたが、米作りや家庭菜園を楽しみ、近くの天体観測所の観望会に参加したり、俳句や韓国語を習っています。特に俳句は花鳥風月の多様さを17文字に表わすことの難しさに苦闘していますが、月一回の句会が待ち遠しいと思う日々です。
今回、久しぶりに「剛毅朴訥」の言葉を噛みしめています。時代が変わっても、自分の意見を出し合える、どんな意見も拒否しない、とことん語り合い果敢に行動する、という「一生懸命さ」は、今後ますますデジタル化が進む中で、誰かが言ってましたが、真心のこもったアナログ精神として決して外せないモノだと思います。
冬の時代はじっと耐えて果実を蓄え、やがて来る春のために静かに行動しよう、団旗はためく下に結集しよう! 押忍
最後に、6代目でともに汗した、故田尻大君、故中川恒喜君、故内田清君の御霊に哀悼の誠を捧げたいと思います。 合掌
36.野上敬文(6)
長崎県在住47年経過。長崎開港450年、長崎市へ来て38年が過ぎ、最近は「さるく」にはまってます。
長崎の街、長崎駅、市内電車が走る線路など、長崎のほとんどの平坦地は埋立地です。寺、神社、名所旧跡などは坂道を登っていくことになります。
坂本龍馬の亀山社中からは長崎港が一望でき、その上の風頭公園には、ブーツの龍馬が腕組みをして長崎港を見張っています。勝海舟の居宿の木蓮寺は原爆でなくなり、今は門の石畳が残っています。大隈重信の佐賀藩校跡、お茶貿易商の大浦慶の立看板もあります。楠本イネ、瀧の墓は幣振り坂の急坂の途中にあります。高島には岩崎弥太郎の銅像があります。
出島は人工島でしたが、河川の拡張工事で削られ半分ほどになり今は陸続きです。グラバー園は、色々と建物の移築が行われて、長崎港の見晴らしは最高で、目の前に113年使用の世界遺産ジャイアント・カンチレバークレーも見られます。
亀山社中から下ると、いろんな宗派の崇福寺、興福寺、皓臺寺、清水寺等の15のお寺がつながっています。キリスト教の遺跡(浦上天主堂、大浦天主堂、ルルド等)もあります。どこを廻っても興味深い話ばかりで話題がつきません。
諏訪神社などの神社巡りも大変です。登らないといけません。一本柱鳥居の山王神社、職人尽の松ノ森神社、龍馬も通った亀山社中そばの「竹ん芸」の若宮神社など大変です。市内の山はそう高くはありませんが、仲間と示し合わせて山頂を目指します。
長崎の寺、神社、名所旧跡、山などを求めて、これからも「さるく」をしていこうと思います。長崎にお出での折は案内します。どうぞご連絡ください。
37.中野和夫(8)
【近況報告】子どもが独立して10余年、今は子ども部屋をパソコンルームにリニューアルして書斎みたいに使っている。PCデスクの横に薄型本棚を置いて、コーヒー棚、常備薬、パソコン雑誌、読みかけの文庫本を動かずに手にすることが出来る。「昼寝ごろり」の空間スペースもあり快適だ。
この快適な空間で、自分の好きなことを楽しんでいる。懐かしい紙写真のデーター化、そして全ての断捨離にも励んでいる。新しい情報入手は、インターネットを開けば目から、耳から入ってくる。しかし、口からの情報発信は不足している。
もともと年金生活者だから人と会う機会は減っているのに、更にコロナ禍のため同窓会やOB会はない。昔話は無駄話が多いと言われているが、脳の活性化のためには無駄話は貴重だ。無駄を省けば世の中がよくなるとは思わない。無駄があってこそ、人間らしいし世の中も活気がでてくる。早くコロナよ立ち去れ!
【4回生への送る言葉】
中村団長が2年の時だったかな…。過去の少人数団員の中で応援団演武の引継ぎが出来てなかった。今の4回生が1年の時は熊大応援団の演武の習得が困難になっていた。そこで、OBが代わる代わる武夫原や小体育館で演武伝達練習をしたことが懐かしく思い出される。月2回ペースで半年以上実施した。
現役と一緒に演武を演じ歌い踊ることは、時空を超えて楽しかった。秋の夕暮れ迫る武夫原で練習したあとの正座黙想い出に残る3人だ。後半の2年間はコロナ禍のために思うような大学生活が送れなかったことは残念なことだった。しかし熊大応援団としての活動が、これからの君たちの人生に生きることを期待したい。
38.田川嘉隆(2)
第49代の新幹部主将高野真心君等のお手紙を拝見し私なりに感じたことを申し述べます。
創設期より、活動、休部、再生、チアリーダー部創設・・と約50年間よく続いたものだ。
応援団創設の原点にかえって考える。その時代毎に世相に合った、熊大の仲間が強いものは強いなりに、弱いものは弱いなりに真剣に闘っている。拍手や声援だけでなく「応援団の形として応援する」ボランティア精神と同じ内容である。応援の形姿が昔風の男性的な剛毅なスタイルから、チアリーダー的なスタイルに変化してきた。しかし応援団精神をもう少し幅を広げて、ボランティア精神と考えれば、応援は何も男性に限ることはない。メンバー募集や応援形式も自由な発想が生まれる。
私も大学卒業後、某電気会社に就職し企画・開発部門に配属になったが、1975年国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第二次報告書を読み、地球温暖化問題に関心を持ち活動を始めた。1997年に会社を早期退職し、環境ISOのコンサル会社に再就職し、そして独立。話が逸れましたが、世の中は常に変化し、世のニーズも常に変化している。全て「不易流行」で、変化するもの変化しないものを識別出来ないと必ず失敗する。時代は変わり、応援団のメンバー募集で男性募集してもなかなか入部しない。そのような現象が起こっていることを何も見直すことなく募集しても人は集まらない。時代が変化しているのです。昔風の懐古を懐かしむこともよかろうが、若い人達にそれを求めることは、時計の針を逆に回すことだ。しかしチアリーダー部は集まっている。次の時代を考えよう。コロナ禍後には必ず次の問題が起こる。それは何か? 南海トラフの大地震だ、震度9.1東日本大震災の約10倍。死者23万人。全壊15万棟。直後の被害は約170兆円、20年の長期復旧も予測すれば総額で1410兆円。日本は世界の最貧国に陥ると懸念されている。しかし、今真剣に対策すればその4割は軽減できるとも言われている。
試練は次から次ときます。人生はそうゆうものだ。逃げずに正面から立ち向かおう。その時代にあった新しい風を起こそう。応援団精神は不撓不屈の精神。そこで、私の考えだが、応援の形式を変えて「団員が少ないなら、少ない人数で、最大の効果が発揮できるやり方」を考える。時代が要求している「新しい道具」が必要だ。その道具を使いこなし、自分も楽しみ、それを実現までもって行く過程で、自己の能力向上に繋がる。それでもって社会貢献も果たすことが出来る。それは「ドローン応援団」である。
最初は3人程度から出発し、段階的に技術が蓄積され、その技術を更に継承し、年々メンバーが増えていく。昨年の北京オリンピックの開会式のプレゼンテーションを見ましたか? 地球儀や人物像が夜空に大きく投影されていた。ドローンを使えば、性別に関係なく、年齢に関係なく、自動化も自由自在。持ち運びも容易。太陽光発電・充電可能、音響の自動化。今ドローンは急激に拡大・高度化している。中国での進化は目を見張るものがある。将にプレゼンテーション技術だ。
しかし、この分野は年齢が高くなるとハッキリ言って無理。若い人達がグループで行えば進化は早い。「ドローン操縦免許取得プロジェクト」を発足する。この技術は建設DX(デジタル・トランスフォーメーション)で中核技術だ。男性に限定せず、理系女性でも可能だ。学生時代にこの技術を身につければ、就職先は問題なし。未来社会はそのような君たちを待っている。
更に南海トラフ超巨大地震に準備活用すれば、多くの命を救うことが可能だ。また震災後の多量に発生する災害廃棄物の搬入整理やマンションの長寿命化点検に役立てることができる。この技術は10年単位で考えられる。これをひと1人でチャレンジするのでなく、応援団のチームで取り組めむ。OB会も含め長期的に系統的に取り組めば、必ず成功する。学生諸君に無いのは資金。OB会は機器購入・文献等の支援を行えば、人は必ず集まってきます。最初から欲張らず、図に描いたように、先ずは小型機を購入し、白川の河原、室内練習場で安心して飛ばす。操作に慣れてきたら、徐々にステップアップし、チアリーダーと融合する。 次の世代に役立つ新しい応援スタイルを構築しませんか? 以上
39.原田順一(7)
思えば52年前、熊大応援団に入部したのは、私の人生の中で晴天の霹靂とも言える想定外の出来事でした。大学には高校の教員の免許を取るために行ったのですが、自分が人前で話すことが出来るようになれるのか不安でした。そんな自分を変えたいと思っていたが、まさか得体のしれない応援団なんかに入るとは驚きでした。毎日、今日の練習を最後に応援団を辞めようと思い続けてきたのに、どういうわけか1年間続けることが出来たのにはびっくりでした。そして2年生になると新入部員を勧誘している自分がいました。
大学卒業後は、高校の社会科教員になりましたが、応援団での体験は私の教員生活を支える大きな柱の一本になりました。しかし28年前、今度は双極性障害という病が私を襲いました。躁状態の時は気分もよく生きやすいのですが、鬱の時は生きることがこんなにつらいのかと悶々と過ごし、長・短期の休職を繰り返しながらも病気退職ではなく定年退職して11年が経過しました。
定年後も残念ながら双極性障害は続いていますが、またしても想定外の出来事で、昨年早期のぼうこう癌の手術をし現在定期的な検査を受けています。私の人生がどれだけ残されているのかわかりませんが、生ある限り精一杯生き続けたいと思っています。
活動した時期が違えども、同じ熊本大学応援団で人生の一時期を過ごされた皆様のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。