今も伝わる応援団の熱き想い・・歴代「剛毅」から

(1-10) 10本づつまとめています。右のシートをクリックしてください。


第1回 ある一回生の葛藤

学ランを着れば高校生にしか見えない僕を熊大応援団の一員だと誰が思うであろうか。練習中に幾度休ませせて下さいと言おうと思ったことか。結局(ここで休んだら後悔するような気がして……)そのまま終わりまで行ってしまった。練習が終わるとほっとする。汗をこれだけ毎日流せるなと感心する。

一日一日の練習にぶちあたるしかしょうがない。この先、団員として自分は変わっていくのだろうか。演武練習をすると、僕はリーダーに合わせることが出来ず幹部によく怒鳴られる。自分では遅れないようにしているつもりだが……。実戦にしても壮行会にしてもみんなが力を合わせてやらなければ意味のないものになってしまうからこわい。とにかく練習頑張ります。

(昭和57年10月発行「剛毅」ウルタン14号から)(写真は昭和58年5月合宿から)


第2回 10周年を迎えて

    OB会初代会長(初代団長)和田英樹
ありがとう。
何に対してなのか自分にもわからない。でも、今の自分を生かしてくれた何物かに対して、ただ、ありがとうと言いたい……そんな気持ちである。
「10周年は女房同伴で集まろう」折りにふれて私達はこんな話をした。しかし、そんな話をしながら「夢だ」と呟いている、もう一人の自分をいつも感じた。その夢が、今、ここに、こうして現実となっている。どうして嬉しく、またありがたくない筈があろう。その喜びを、この集いの中で過ごしてきたみんなと、心ゆくまでかみしめていたい……今はそんな気持ちである。


過去は過ぎ去った日々でしかない。しかし、その過ぎ去った日々があって、はじめて今日がある。今日の、この感動は、10年という歳月が生み出したものなのだ……。と同時に決して忘れてならないことは、今日の、この感動が、「明日」を培っていくということだ。出来るか出来ないかは、やってみなければわからない。大切なのは、「出来る」と信じることだ。

あの頃は……。太鼓が欲しかった。団旗が欲しかった。部室が、演武が、練習場が……、そして何より団員が欲しかった。欲しかったから求めた。求める気持ちに終わりはなかった……。そして、今こそしみじみ思う……。それが目的だったのだと。求める日々が、夢に近づく日々だったと。何もなかった。だから夢があった。だから可能性があった。だから生き甲斐があった。10周年を迎えた今、一体何があるだろう。これから何を求めていったらよいだろう。孤高……あくこともなく求め続けていく団員諸君にこれからの夢をたくしつつ、私の拙い詩を10周年に寄せる。

終るのではない、はじまるのだ。

生きているかぎりいつでもどこでもそこで終るということはない。
生きているかぎり、いつでもどこでもそこからはじまることができる。
若者に過去はない、若者にあるのは、常に現在…ただ今と未来だけだ

一生懸命生きろ、力いっぱい生きろ。
己を信じて精いっぱい生きてきたことに喜びと誇りを感じる日がきっとくる、必ずくる。
その日まで、黙って歩け。

 

(昭和49年12月発行「剛毅」10周年記念特別号から)

(写真は昭和48年12月13日:第5回演武会にて)


第3回 太鼓と私

熊大応援団には2つの太鼓がある。平太鼓と立ち太鼓だ。不思議に思われる方もおられると思いますが、僕が本当に好きなのは平太鼓の方だ。しかし、初めから平太鼓が好きだったわけではない。部室の片隅に置いてある立ち太鼓を見ては「あっちの方をたたけたらなあ…」と何度思ったことでしょうか。

他サークルの応援、壮行会、そして毎日の練習はいつも平太鼓だった。本当にこの平太鼓には、度々苦い思いをさせられた。僕は憎んでいたのかもしれない。

そんなある日、太鼓の革が破れた。そういえば、もうだいぶ革が薄くなっていたのを思い出す。

「ああ、すまなかった…」僕は反省した。

「俺だけじゃなかっただなあ。俺が苦しかった時、お前も苦しかったんだなあ。水泳応援の時も、野球の応援の時も勝手に連れ出して、そのたびに痛い思いをさせたのか…。そういえば、あの帰り道、お互いにくたびれた顔をしていたな」

太鼓は生き物に例えられる。僕はその後太鼓をたたくときは、強くしかし愛情を持ってたたくことにしている。

(平成2年10月発行「剛毅」ウルタン22号から)(写真は平成2年11月TKU杯での応援から)


第4回 2回生の感動-17回演武会

今回の演武会は、前回とは違う何か得体の知れぬプレッシャーを感じながら迎えた。そして、本番…。みんな燃えた。たった3時間余りのためにどれだけ練習してきたか、何度も何度も怒られて注意されたか…。
本番中は何度も涙が出てきた。そのたびにこれでもか、これでもかと思いやり遂げた。翠巒が終わったとき、実戦演武が終わったとき、蘇峰が終わったとき、ボシタが終わったとき、巻頭言が終わったとき、涙が出てきた。最後に幕が下り「熊大ファイト」がかかる。言い終わったとき全身から力が抜けていくのを感じた。それと同時に目が潤んでかすんでしか見えなかった。でも旗を下さなければいけない、精一杯涙が出てくるのを我慢した。自分だけではなかろう。他の団員達も…。
この団員たちの涙が観客の心に伝わったのであれば、これほど嬉しいことはない。第17回演武会は自分たちにとって言葉では言い表すことが出来ないほど、最高の時であった。この日まで蔭になって支えてくれた人に感謝の気持ちで一杯になった。ありがとうございました。

(平成2年10月発行「剛毅」ウルタン22号から)(写真は平成3年12月演武会から)


第5回 まあ話を聞けから始まった

応援団生活

 

(第19代 藤川さんの剛毅文章から)

一年生の4月、雨のしとしと降っていた夕方、生協で夕食を食って帰ろうとしている時だった。私は寮の友人と二人で歩いていたのだが、体のごつい先輩、多分、前川先輩だったと思うが、友人と一緒に腕をつかまれてクラブの話だけでも聞いてくれと、椅子に腰かけさせられた。
まず、最初に私は「クラブは何ですか?」と聞くと、「応援団だ」と答えが返ってきて、すぐに椅子を立とうとしたが、それより早く押さえつけられて話を聞かされた。写真を見せられたり話も聞かされたが、いっこうに耳に入らず、ただ早くこの場を去りたい気持ちだけだった。幸い、隣の友人は話が上手で、うまく勧誘を振り切ったみたいだったので帰れると思った。実際、帰れるはずだった。ところが、帰れると思ったら今度は応援団に入るのも面白いんじゃないかと思い始めたのである。誓約書を書いてしまったのである。こうして応援団生活が始まった。
でも聞くと応援団をやるとは大違いで、練習は非常にきつかった。ただやめようとは思わなかった。私は、応援団が好きではなかったが、応援団員は皆好きだった。応援団には酒があった。酒については嫌な思い出がたくさんある。1年生の時、夜10時から飲んで夜中の3時頃までアカシヤにいたのは覚えているが、朝目覚めると水野先輩の部屋であった。それから朝食を食べに生協に行ったのだが、最後の味噌汁を一気に飲んだ途端に、食べた朝食を全部吐いてしまった。そして、再び水野先輩宅に戻り練習前まで寝ていた。
こんな苦しい応援団生活を2年あまり続けて今は、幹部となって神様になった気分は最高だが、反面、上に立って引っ張っていくことの難しさを知ってきたこの頃である。ただ、自分が今日まで続いた理由は何なのかと聞かれたら、自分が馬鹿であったこともあるが、団員の人間性が好きだったと思う。苦しい時を共に過ごした仲間意識があった。これからも熊大応援団は続いていく事だろう。

(昭和59年9月発行:20周年記念誌 ウルタン16から)

(写真は昭和45年4月;第4代幹部の生協前:団員募集)

 


第6回 応援団諸君との宴で感じたこと①(金守新一先生)

 

早いもので熊大を退官してから、数か月余りになる。最初の頃は一抹の寂しさもあったが、人間には新しい環境に対する素晴らしい適応性があるもので、やがて新しい生活にも慣れ、最近では毎日張りのある充実した生活を送っています。

 

最近、11月中旬に7代団長だった河村君から電話があり、「実は忘年会を兼ね先生の家でOB会をやりたいんですが…」との話があった。ご存知のように我が家は、家内と二人の上、家内もあまり健康でないので、これは大変なことになると返事を渋っていたところ、さすがに銀行員(河村氏)だけあって、電話の向こうで私の気持ちを察知したのだろう。

「先生、何もご迷惑をおかけしません。我々が、料理から酒まで全部準備し持参し、OBの奥さん同伴でお邪魔し炊事一切をやりますから、先生と奥さんは、ただ座っているだけで結構ですから」とのことなので、一応快諾した。

 

その計画では、大体5,6人で、私も久しぶりに懐かしい諸君に会えると密かに楽しみにしていたところ、その前日に再び河村君から電話があり、実は参加者が10人くらいに増えるとのことであった。

「これは大変になった、10人も座れる食卓をどうしようか」など急に心配になった。

「こら!我が家は料理屋ではないぞ!! 食卓などをどうするのだ」と思わず、つまらぬグチを言ってしまったところ、河村君の電話が切れてものの5分もたたずに、OB会幹事長の南君から電話があり…

 

「先生、ご迷惑をかけます。会場を変更しましょうか?」と如何にも心配そうに相談があった。これは、河村君が心配して早速、南君に相談したなと感じたので、「今から変更するといって心当たりあるのか」と尋ねたところ「何とか探してみます」と頼りなさそうな返事なので、折角の好意ある企画を、このようなことで心配させて申し訳ないので、予定通り我が家で実施することにした

 

(昭和61年11月発行:ウルタン18から)

(写真は昭和61年2月;金守先生退官記念祝賀会にて)


第7回 応援団諸君との宴で感じたこと②(金守新一先生)


当夜は待つほどに池松君夫婦がまず到着した。他の諸君の到着まで酒と肴を前にして待つのはなかなか難しいので、「池松!! どうせ飲む酒だ、三人でそろそろ始めながら待とう」と早速酒宴が始まった。


やがて、3代目団長の古賀君が奥さんと一緒に、そして南君が順次集まって宴はますます佳境に入った。それぞれの諸君がびっくりするような数多くのご馳走と酒を持参してくれたので、本当我が家は何も準備しないまま豪華な酒宴になってしまい、賑やかで楽しい和気藹々とした宴がいつ果てるともなく続けられた。参加者を詳記すると、古賀、南、河村、池松、原田、守尾、阿南、花籠の諸君と古賀、池松の奥さんであった。


そのうち、古賀君から「先生!このような会は年に2,3回やらないかんですな!」という提案があり、私も先生に諸君の好意が嬉しく満場一致で決定した。私にとっては、社会的にも人間的にも大きく成長していく諸君を目のあたりにするのは、この上もなく幸せなことであり、特にだんだん立派になる諸君が、このように酒、肴持参で集まり、学生時代に戻り歌を唄い、肩を組んで「武夫原」を踊り、私たち老夫婦を心温かく激励して頂き、この上ない果報者だと思っている。正直なところ、この次の会合を古賀君や南君、河村君たちが相談して何時頃に決定するのか今から待ち遠しく思っている。


どうか、応援団のOB諸君や現役の諸君!!、私も退官して時間の余裕もできたので、機会があれば連絡して遊びに来てもらいたい。呼び出しなら、ますます結構で健康の許す限り出かけて、諸君と杯を交わしながら、昔話などしたいものだと思っている。寒さもこれから厳しくなると思うが、どうか健康にくれぐれ注意して益々のご活躍を心から祈ります。

 

(昭和61年11月発行:ウルタン18から)

(写真は昭和61年2月;金守先生退官記念祝賀会にて)

 

第8回 ねえ、応援団マネージャーしない?  

 

月日がたつのは早いもので、私が熊大に入学してから、もう10か月も過ぎようとしています。私が、この憧れの熊大に入学でき、そして、何となく応援団のマネージャーになっていろんなことがありました。

マネージャーになった当初は、コンパのたびにOBの方や他の団員さんに聞かれました。

「どうしてマネージャーになったの?」

返答に困った私は、自分でもどうして何だろう…と答えを探していましたが、出てきた言葉は、次の一言でした。

「何となく…」が一番ぴったりするようでした。

 

最初のうちは、部室に行くのが怖かったものです。押忍の声を聞くたびにビクッとしたものでした。先輩マネージャーは平気でいられるのが不思議でした。そのころの私の憂鬱の種は、同期のマネージャーが入ってこなければどうしようでした。会う人ごとに勧誘して声をかけていました。

 

「ねえ、応援団マネージャーしない?」

その甲斐あって、6月の終わり頃に満理ちゃん、その一週間後にわーちゃんが入ったわけです。これでひとまず私の憂鬱も消えました。

 

そしてマネージャー3人そろって迎えたのが幹部交代でした。この時は、自分が一番酔ったような気がしました。三次会の「竜神」ではみんなが歌いだしたのに、何故か自分は泣き出してしまい、帰りはふらふらしながら家に帰りました。次の日の水泳応援の間、胃が痛くて痛くて、もう酒は飲まないぞと決意したものでした。応援団マネージャーになって、初めて生酒を飲み、初めて人が潰れるのを見て、初めて焼酎ロックで飲むことを知りましたが、今では当たり前のように注がれています。マネージャーになったお蔭で人並みに飲めるようになりました。団員の方には本当に良くしてもらってマネージャーになって良かったなあと思っています。マネージャー業もあと少しですが、最初の頃の緊張感を忘れずに、マネージャー3人で力を合わせて頑張って行こうと思っています。

 

(昭和61年11月発行:ウルタン18から)

(写真は昭和60年12月:第17回演武会にて)

第9回 恐怖の5月合宿 

 

5月合宿、それは我ら一回生にとって最初の壁であった。「まだ終わらない、まだ、終わらない…やっと終わった」と毎日の練習のたびに思った。自分にとっては(誰にとっても同じだろうと思うが)恐怖!恐怖!恐怖の朝練が続いた。小学校当時の朝のラジオ体操も、これほど嫌ではなかった。毎朝、合宿所から疲れのとれない体を引きずって部室までやってくる。自分の体がやっと機能し始めたときは、もう朝練の途中、それから先は最後まで自分の体を終わるまで持たせることだけに集中する。朝練が終わった休む間もなく食堂に行って朝食の準備をする。空腹感はあるのだが体が食べ物を受け付けてくれない。
もうクタクタの状態で大学講義を受ける。先生の声は子守唄になってほんのひと時の安らぎが訪れる。そんな状態だから5月合宿は最後まで持たなかった。過労と腹痛で途中ダウンしてしまった。そして今なお、5月合宿の思い出として、この腹痛は自分の体に襲ってくるのだった。

 

(平成2年11月発行:ウルタン22から)

(写真は平成2年8月:夏季強化合宿より)

第10回 負けたくないから走った

(遠歩完走記)

 

晩秋の晴れ渡った夜、阿蘇の夜空に号砲が鳴り響いた。同時に多くの若者が走り出して行った。上空では満天の星が彼らを激励しているようにきらきらと輝いている。「熊大ファイト」をかけながらダッシュしている者もいる。
自分は、彼らの後ろ姿をみながらのんびりと走り出した。みんなと一緒のつもりだったが、阿蘇の山を下りた頃は、仲間の姿は見えなくなってしまった。孤独感にさいなまれながら走っていると疲労感にまで苦しまられてきた。1回生には負けられないし、同期の2回生負けたくないし、幹部には勝ちたいし、OBには負けるわけにはいかないと思い気力を振り絞ってテクテクと走り続けた。沿道の人の声援や差し入れのおかげで何とか武蔵塚の手前まで走ることが出来た。しかし、そこから足が痛み出し白々と明けていく朝日を背に、のろのろと走ったり歩いたりを繰り返していく。でも赤門までたどり着いた。最後の力を振り絞ってゴールを目指して駆け出した。長い道のりを走り切り大地に疲れた体を投げ出していると、上空では明るい太陽が私の健闘を讃えてくれているかのように輝いていた。

 

(平成2年11月発行:ウルタン22から)

(写真は平成2年11月:遠歩が終わっての学館前にて)