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第11回 統制長の独り言 (時の過ぎ行くままに…) 統制長と呼ばれ続けて半年が過ぎた。自分のどこをとっても統制長と呼ばれるにはまだまだ甘い部分がある。この半年、いったい自分は何をやってきたのだろうか…と振り返る時がある。幹部になった時は、二回生3人、一回生3人で始まった。春までは二回生は5人だったが、2人が退団届をだした。その2人を団に戻そうと説得したが、夏のインカレ前には退団してしまった。そんな状況の中で一、二回生には十分に目を配れなかった。インカレが終わるまで悪戦苦闘の日々であった。体重もかなり減った。そして現在に至る。 「おい、統制長!! お前、何やっとるんか!」夢を見る時、必ずこの言葉がでてくる。どこにでもいるような、ただのちっぽけな人間に過ぎないこの俺が、返答できるだろうか…。結局、自分の弱さ、未熟さ、甘さに気づくだけである。 幹部になっても半年。先ほどの言葉を夢でみながら、突っ走ってきた。時には回り道しながら…。ほとんど回り道だったかもしれない。しかし、これからも変わりはしない。一、二回生を怒鳴り鍛える。それしか方法はない。悩ませて、泣かせて、怒らせて、考えさせる以外に何も生まれやしない。 応援団…練習が全てではない。むしろ練習以外で応援団というものを徐々に知っていく。一、二回生は人数じゃない。団員一人ひとりのハートさ。『辛く、苦しい、それだけなのにバカになれた一年目』 『上に下に挟まれて孤独、寂しさ耐えねばならぬ。それでも下がかわいい2年目』 『ここまでくればしめたもの。やってやるさ燃え尽きるまで…3年目』何故ここまで続いた応援団、答えは一つ、ただ一つ、応援団が好きだから…。 それしかない、ウン、やっぱりそれしかない。押忍!! (昭和61年10月発行「剛毅」ウルタン18号から)(写真は昭和60年12月演武会から)
第12回 校旗をもって思う
(一回生の気持ち)
ある金曜日の夕方、自分はテニスコートの前に学ランを着て立っている。 「旗を上げて」の号令、目の前にあった旗を立てる。 “今日の風はどうかな?” メヒコ、必勝の歌、第一学生歌が続く。最後はエールだ。リーダーに合わせて校旗を下さなければならない。当然のことながら、自分…いや校旗が注目されているだろう。しっかり下さなければ…。 いつか飲んでいる時、どこかの部の先輩が言ったことを思い出した。 「あんな大きなものを下したり上げたりするのを見ていると、力が湧いてくる」 「あまり恰好はよくないですが、お役にたてるなら…」と心で思う。 今度は「旗を下して」の号令、周りの人が自分…いや校旗に押忍をする。大変なものを持っているものだといつも思う。 他大学の演武会のパンフレットを見た。 “旗手、それは不動の精神を持って、風に影響を受けずじっと旗を支え持つ」と書いてあった。自分はといえば、不動どころか、風が吹いたらどこへと飛んで行ってしまいそうだ。演武会では、この旗に恥じないようしっかり旗を持ちたいと思う。(昭和61年10月発行「剛毅」ウルタン18号から)(写真は昭和60年12月演武会から)
第13回 ウルタンの面白さ
今までのウルタン「剛毅」を読んで、自分たちと同じ時期を過ごされた先輩たちの気持ちが、今の自分の気持ちと同じところが多々あるのには、本当に熊大応援団なんだと再確認いたしました。また、ウルタンを1年生の時に読み感じたこと、そして2年生になって読み返して感じたものが違うのは、1年以上の経験があるからかな…と思った。 合宿、幹部交代、インカレ、演武会、数多くのコンパの出来事がウルタンに書かれている。それぞれの文には、その時の気持ちがそのまんま書かれている。特に合宿については、今も昔も変わらないところが多い。多分、これからも同じように苦しかったことや、幹部に対するグチが、ずっと語り継がれていくのではないだろうか。これがウルタンだと思うし、これなしではウルタンは語れないのかと思う。OBの方々の現在の生活や思い出話も自分たちの励みになるし新しい発見もある。これからもウルタンが発展していきますように…。(昭和61年10月発行「剛毅」ウルタン18号から)(写真は昭和62年9月第8回OB会から)
第14回 初めてのインカレ
(一回生)
インカレの強化練習の時、先輩が「インカレは想像を絶する」とか「ぶっ倒れる」とか恐い話をしてくれたので、2日も3日も続いたらどうなるのだろうと思っていた。とにかく張り切って応援しに行こうと思っていた。
1日目 幸いにも小雨模様だったため、夏の暑い日差しからは避けられた。午前と午後は水泳の応援。成績なんか気にしていられない。ひたすら、リーダーを見て実践するだけであった。1500m自由形も数回あった。夢中になれた。熊大ファイトもかけた。しかし、その日のミーティングでは幹部からとても怒られた。
2日目 女子バレーボールの応援。ギャラリーに上がって縦2列に並びリーダーはもう一方の側に立って応援をした。バレーの試合は小刻みに展開していくためリーダーは難しそうであった。また、リーダーとこれだけ離れてする応援は初めてだったため戸惑ってしまった。それから、壮行会も行ったがみんな気合が入っていた。団生活の中で、また一つを山を乗り越えてほっとした…。
(昭和57年10月発行「剛毅」ウルタン14号から)
(写真は昭和57年7月インカレ北九州から)
第15回 一回生の一日
午前8時。目覚ましの音に目を覚ます。しばらくして頭が回転し始めるが、前日の練習で疲れた体が思うように動かない。やっとのことで起きて、朝食をとるため生協に向かう。
午前8時40分。真面目に1限目の授業に出席するが眠い。2時限目は眠気も取れて勉強に打ち込むと言いたいところだが、そうもいかない。その日の練習が気になってくる。昼食を済ました後は満腹で気持ちが良くなり、3時限目に出るのが億劫になる。練習の事も考えて自主休講にすることもしばしばである。
午後4時40分。いつものように部室に向かう。その足取りは鋼鉄の重りでも引きずっているかのように重い。ただし、水曜日は軽い。
午後4時59分。茫然。
午後5時。「跳躍!!」リーダー長の掛け声と同時に練習が始まる。
「二列じゅーたい!!」一番嫌なランニングだ。
「よし、今日は遅れんぞ!!」と思うのもつかの間。足がだるい。回転数が減ってくる。見る見る間に皆が遠ざかる。自分が情けないと涙することもある。何故、こんなきつい事をしなければいけないのか…腹を立てることもある。だが、次の瞬間、何も考えずにひたすら走っている自分に気づくこともある。不思議である。
ランニングが終わるとすぐに、腕立て伏せ、うさぎ、あひる、かめ、おんぶであり、しこ立ちであり、腹筋などなどである。どれをとっても、まさに「地獄の2丁目」である。
「解散」練習が終わり、体中の力がすうっと抜けていく。このひと時は極楽である。
午後8時。いつものごとく「太陽軒」で夕食をとる。
午後9時。シャワーを浴び洗濯を済ませ一段落ち着いてテレビでも見る。そんな時ノックの音がする。70%の確率で麻雀仲間がやってくる。それ以外は、応援団一回生仲間か出身校の友達である。
午後12時。結局一人になって床に入り考えることは、やっぱり応援団のことである。明日の練習では、どうしよう、こうしようと思うのだが、よく考えてみると前の日も同じようなことを思っていたなあ…と思い可笑しくなる。
午後12時○○分。ぐっすり眠りに入る。
このように応援団に明け応援団に暮れていく生活の自分だけど、今は耐え忍ぶことが必要かもしれない。とにかく、押忍の2文字に賭けてみようと思う。熊大、ファイト!!
昭和57年10月発行「剛毅」ウルタン14号から)
(写真は昭和58年5月五月合宿から)
第16回 自分に素直に、そして積極的に生きたい
早いもので二回生になって半年以上が過ぎた。これまでの自分を反省してみて、一回生をリードしていく立場として、至らない面がまだまだあるように思う。練習中、応援中、そして練習外においても…。
本当に最近は月日の経つのが早く思えて仕方がない。入学時のドタバタがついこの間の事のようだ。このままだと、自分も時の流れに押し流されて、いつの間にか、ただの過去の人になってしまいそうだ。これじゃいけない、何かを残さなければ。いや無理に形のあるものを残す必要はないのじゃないか。虚勢を張って生きることはない。もっと自分に素直に生きよう。そして、自分に与えられた使命、義務というものを積極的に果たしていこう。すべては明日のために…。
ところで、自分は体育会本部の役員も務めてきて、それ相応の責任をひしひしと感じている。また、応援団二回生という立場もあり、この2つの立場を踏まえ、自分の力を試していきたい。これからも「可能性」を追求していきたいと思う今日この頃である。
(昭和57年10月発行「剛毅」ウルタン14号から)
(写真は昭和58年5月五月合宿から)
第17回 剛毅第1号編集後記から OB会誌の生い立ち
古賀三代目団長の時代からの懸案だったOB会誌が5か月くらいかかって、やっと出来上がり非常にうれしい。当初は、表題を“うるたん”にしようという意見が多かったが、しまらないので“剛毅”にひた。“うるたん”がどんな意味か…みんなご存知ですね!次に応援団結成にご尽力くださった空手道部諸先輩の件ですが、今回はよく話し合うことができず、住所録には記してございません。プロフィールは桃坂総務長が、自分自身を除いて記したものです。プロフィールに“小生”とあったら、総務長を思い浮かべてください。そうすれば、一層おかしくなると思います。
総務長のは誰が書いたって? このきれいな字を書いた吉田会計長です。挿し絵を入れるのに苦労したなあ!どんな絵を描こうかといろんな本をめくっているうちに夜が明けることもあったっけ。しかし、今ではOB会誌を作り上げた満足感でいっぱいだ。最後にちっちゃな声で“森尾さん”、大きな声で“ご苦労さん”
(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)
(写真は第1号の表紙)
第18回 剛毅第1号から 熊大応援団の誕生(歩み)
熊大に一人の男がいた。彼は熊商大に応援団があるのを知り、熊大にもと思った。昭和41年(1966年)の対商大定期戦でのエール交換に何も知らず一人で乗り込んで行き一人でエールを切った。考えてみたまえ!太鼓も旗も、一人のバックもなしに俺は熊大応援団だと奇声を発した男の姿を…。もしもあなたがその場に居合わせたなら多分噴出したであろう。
その通り、商大生ばかりでなく熊大生もが笑ったのである。何で熊大生が笑わねばならあいのか?その時に彼は羞恥心はなく、むしろ憤怒心でいっぱいだった。この怒りは男の意地となり、熊大応援団結成の礎となったのである。
それからというもの、団員を集めて見るに忍びないほどの厳しい練習が始まったのである。この練習がいかなるものであったか、“精神の肉体に及ぼすちからより、肉体の精神に及ぼす力の方がより偉大である”と彼に言わせた事から察しがつくであろう。それから一年半、熊大応援団は、博多の九電体育館で行われた応援団乱舞合戦で脚光を浴び名実ともに認められただけでなく、他大学応援団に引け目をとらないほどに成長していることを実証したのである。一年半でこれまでになったのは、前に述べた男の意地、和田英樹の意地の強さを物語っている。
その後、田川二代目団長、古賀三代目団長時代にさらに強固な地盤固めをやり、好かれる応援団を目指したが為に、熊本でのインカレで団長会議、市中パレードの主管を大成功裏にやり遂げられたのである。
現在、団員24名。一致団結して頑張っている。もう押すに押されもしない団体に成長をしている。今後も我々は、団結をモットーに、より高い段階へと成長していかねばならあない。
(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)
(写真は昭和43年11月23日第12回商大定期戦の開会式)
第19回 剛毅第1号から
犬童一昭、よか男
第5代統制長(当時二回生)
犬童一昭よか男
全然もてないけどよか男
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
雪ニモ夏の暑さニモ負ケヌ
丈夫ナ身体ヲモツ ヨカ男。
女も馬鹿ね!
(横顔)応援団一の酒豪である。イモ焼酎で鍛えに鍛えた胃袋を持っているので、彼と酒を飲む時なんか、金がかかってしょうがない。また彼は自分の科(土木工学科)にふさわしい顔としており、力も大変強く、応援団では第2代旗手長として、いつも校旗を守って重要な任務を果たしてきた。今後が楽しいである。
(第4代桃坂総務長のメッセージ)
(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)
(写真は昭和44年7月-九州インカレ-主管熊大-水前寺競技場)
※旗手は当時2回生の故犬童氏
第20回 剛毅第1号から
顧問教官であることの喜びと誇り 金守新一部長
数年前、武夫原の片隅で応援団は、ささやかな産声をあげたように記憶している。夕闇せまる武夫原で同じ動作を声をからしながら厳しく気合いをこめて反復練習をしている姿に、当時私はひそかに敬意の念を払っていた。今や応援団は体育会の底辺を支える大きな存在にまで成長を遂げている。はからずも顧問教官としての依頼を受けた私ですが、団員諸君と接するたびに顧問教官になった喜びをしみじみかみしめている。一見荒々しい印象を受ける行動や動作の中に秘められた美しい友情や義侠心、自らの使命を自覚して自己を犠牲にして、一点の疑いすら抱かず、ただひたすらに黙々と学友の士気を鼓舞することに心血注いでいる諸君の美しい心情は、それらのものが失われつつある今の世代に、キラキラと宝石のように輝いている。私は、応援団顧問教官であることの喜びと誇りを諸君に深く感謝するとともに、諸君の今後の努力と発展を心から期待している。
(昭和44年10月発行「剛毅」ウルタン1号から)
(写真は昭和60年12月第17回演武会での故金守先生挨拶)