今も伝わる応援団の熱き想い・・歴代「剛毅」から

(31-40) 10本づつまとめています。右のシートをクリックしてください。


第31回 灼熱地獄のあとの大きな喜び  

 

骨格と筋肉の動きが重い。体温を調整するための発汗機能は低下していた。少しだけ傾いた太陽は容赦なく後頭部をたたいている。アスファルトの道路から立ち上がるかげろうの中を進む。黒づくめ集団のその眼はほとんど虚ろであった。

“暑さにこんな力があるなんて!!”

黒潮寮に帰り、地獄の拘束を解かれると天国へと走る。すっかり火照っきた体に水をひたすらぶっかける。「ああ、生きていた。今日を乗り越えた…」そして明日だ。

苦あれば楽あり。単純な一句だが、大きな真実を含んでいる。苦の中に忍耐があり、絶望があり、そしてまた希望がある。

思い起こせば苦しいことばかりで、その後には楽しいことばかり。苦しければ苦しいほど楽しさは倍増する。要はいかに必死で苦にぶつかるかだ。そして、その後は酒池肉林…。やった者だけが味わえるものがある。

 

(昭和56年10月発行「剛毅」ウルタン13号から)

(写真は昭和56年7月の鹿児島でのインカレから 


第32回 塩と臭いにまみれた学ランと過ごした一週間  

(二回生のがんばり)

 

応援団にとって、その使命を果たす最も大切な行事であるインカレが今年もやってきた。今年の熊本インカレは、まさに地獄のインカレだった。7月13日ボクシングの壮行会を皮切りに7月20日の準硬式野球の応援まで何と8日間の日程だった。天気は最初の2日間雨が降り出鼻をくじかれたが、7/13からは連日暑い日が続き、自分の学ランにも応援団の勲章である塩の縞と独特の臭いがこびりついていた。

今年は、昨年と違って自分がリーダーになって応援したので、とても気合が入っていた。前半は硬式野球、水泳の応援のほか、多くの壮行会があり、一日中スケジュールがびっしりだった。後半は準硬式野球の応援が続いた。この頃は相当疲れもたまり、のども枯れて大変きつかったが、とにかく熊大に勝ってもらいたくて、一生懸命応援をした。たとえば、一度やってみたかったボシタ連呼の連発を他団員の反感を覚悟で敢行して、1イニング7回もやった。終わった時は、さすがに足が痛かったが、とても気分が良かった。しかし最高に燃え上がり、最高に気合が入ったのは、最終日7/20の準硬式野球の対商大戦の応援だった。当然、商大の応援団も来ていて、自分の経験では初めての応援合戦となった。グラウンドでは野球、スタンドでは応援合戦と、2つの試合があっているようだった。

野球の方は押され気味だったが、応援は絶対に負けないぞと思い、最後まで力を振り絞って応援した。結局、野球の方は惜しくも負けてしまったが、インカレ中、最高の応援ができた。こうして、今年のインカレは終わったが、暑い中一週間以上も応援を続け、とても苦しかったが、何か貴重なものを得たような気がして、塩と臭いにまみれた学ランをそのままにとっておきたい気持ちになった。

 

(昭和54年10月発行「剛毅」ウルタン11号から)

(写真は昭和54年7月の熊本でのインカレから 


第33回  暑い夏、地獄のインカレ、人生の糧…  

(一回生のがんばり)

インカレそれにしても熊本の夏は何と暑いのでしょうか。インカレというと、すぐにあの暑さを思い出す。強烈な直射日光の中、一瞬あたりが、真っ白になるような錯覚に陥ります。その暑い中、黒い服、黒い靴、おまけに黒い靴下まではいて、汗をだらだら流して、目をギンギン光らせて、大声を張り上げていたのだから、何ともたまげる。他の人が見たら、さぞ気が狂っているように見えた事だろう。それにしても、何で今年に限ってわざわざ熊本で開かれたのだ!そのため10日間という長い団活になってしまった。私は生涯においてあれほど長い10日間を過ごした記憶はない。あと2年遅く、あるいは2年早く熊本開催になってくれたらよかったのに…。もしも2年遅かったら僕たち一回生がその頃幹部になっており、下級生の苦しむ姿を横目に…。ウッシッシ…。もし2年早かった、今の幹部がちょうど今年の僕達みたいに、さんざん苦しんでいたのだ、イっひっひ。このインカレで一番記憶に残っているのは、やはり水泳の応援だ。何故かというと考えてみてください。選手の方は水の中をアゴ(トビウオ)の如く、スーイスイ泳いでいるのに…。こっちというと風も吹かない炎天下、黒装束に身を固め、黒い革靴だ。靴の上に卵を落としたら、きっとおいしい目玉焼きが出来たに違いない。その焼け付く靴も何のその…長い、長いインカレの打ち上げの生ビールを思い浮かべつつ10日間を乗り切った。でもいざ打ち上げの時になると、興奮しすぎた私は、不覚にもコップ一杯飲むか飲まないうちに鼻血を垂らしてしまったのであります。『長く苦しい10日間であったけれども、これを乗り越えたという自信こそが、明日の人生の糧になるのだ。』…と幹部がおっしゃた。

 

(昭和54年10月発行「剛毅」ウルタン11号から)

(写真は昭和54年7月の熊本でのインカレから


第34回 豪放磊落な男、アッハッハの声が今も聞こえる(初代副団長

 

今年のウルタンには書きたいことがあった。それは犬童の事だ。初めて会った日のことを思い出す。青い校旗が出来上がり、誰が持つかということになって、顔のいかつい、体力のある者から必然的に試すことにした。最初は2代目の者…少しの時間でダウン。何人かやって最後にずっと持てた唯一人の男が犬童だった。新品の青い校旗が空に上がって行き翻っているのを皆が見ている時、私は犬童の顔を見た。旗手に決まった。

私は犬童の下宿によく遊びに行った。物置みたいなのが階下にあって、それより少しましな二階にあった。それが犬童の部屋だった。昼食や夕食も一緒に近くの食堂で食べた。二人の食事の時に飲んでいたのが、ビタシーというドリンクだった。これが、階下の物置に山のように積んであった。当時は発がん作用があるということで問題になったチクロが含有していたということで売れ残っていたドリンクだ。

外見と中身が豪放磊落で統一された世間では見られぬ大きな男であった。「ソエジマさ~ん、アッハッハ」という声が今でも聞こえる。

チビた下駄、どら声(音痴)、もみあげ、坊主頭、酒、アッハッハ、ビタシー……

さよなら犬童!

※死がこんなに近いとは、君ゆえに、君ゆえに感じる。

 

(昭和54年10月発行「剛毅」ウルタン11号から)

(写真は昭和44年7月-九州インカレ-主管熊大-水前寺競技場)

   ※旗手は当時2回生の故犬童氏  


第 35回 応援団は体で感じるしかない 

応援団に入団したのは昨年の4月、その4月は地獄だったなあ。生協付近で各サークルの部員勧誘でやたら賑わっていたが、新入生はたまったものではない。自分も応援団に捕まった時は、本当に「しまった!」と思った。「これは人生の一大事」とばかりに、下宿に戻っても、講義にでても考えることは応援団に入ったこと…。いかにしたら応援団に入らずに済むかどうかである。でも今思えば一笑するにすぎない。果たしてどういう心境の変化が僕の中に起こったのか。入学したころは応援団なんて眼中になかったのに…。これは他の団員にも共通していることだろうし、先輩たちも同様ではなかろうか。

でもその1年後、団員勧誘に四苦八苦している。いくら応援団が素晴らしいか、いかに心の糧というべき存在であるかを、新入生に訴え勧誘しても伝わらないし通じない。つまり、応援団に入って自分自身が体得するしか方法がないのである。これは長所というべきか短所というべきか難しい問題だ。しかし、これだけは言える。

“熊大応援団 入部して後悔することはなし”

 

(昭和54年10月発行「剛毅」ウルタン11号から)

(写真は昭和54年8月-夏季合宿にて)


第 36回 見えない頂上、はいつくばって登るのみ  

 

応援団に入部して一年半がたった。今俺は地獄の二回生である。

一回生の時に思ったのは、練習、応援など面で一回生より二回生の方が楽に思えた。でも二回生になって初めて、それが間違いであることが分かった。練習において一年生よりくたばってはならないし、苦しい顔を見せてはならない。その精神的重圧といったら、一回生の頃の練習と比べ物にならない。応援も一回生より大きな声で気合を入れてやらねばならない。すべての面で二回生は一回生に負けてはならない。そうかといって下ばかり気に取られていると上から怒鳴られる。一年生からは突き上げられて幹部からは小言を言われる。間に挟まった二回生はとにかく苦しいであるしかし耐えなければいけないのである。いくら苦しくても絶対に弱音を吐かず耐えて、耐えて耐え抜くことが二回生なのだ。応援団というものは大きな山なのだ。そしてその頂上は雲に隠れて見えない。俺は今、この大きな山の中腹にしがみついている。目の前には、いくつもの難所が控えている。その難所を一つづつ乗り越え、たとえスピードが遅くてもいい。はいつくばって着実に前進し、雲に隠れた頂上を極めるまで一生懸命頑張りたい。

 

(昭和54年10月発行「剛毅」ウルタン11号から)

(写真は昭和55年3月の春合宿-立田山中腹ので階段アヒル)


第37回 退団届 心の葛藤 未来への出発点 

 

記憶をたどってみれば、昭和43年頃である。高校の松林のなかで、和田さんとの出会い、熊大応援団というものの存在を知った最初の時でありました。そうして、昭和46年にあこがれの大学生活が始まり、和田さんが作った応援団にも入りました。ここまでは意気揚々と希望に燃えた若者の姿がありました。しかし、応援団に入って一週間もたたないうちに、重大な問題にぶつかりました。「挫折」です。こんなきつい練習を続けていくと、自分が描いた大学生活の全てが、めちゃくちゃになってしまうのではないかという不安にとりつかれたのでした。そしてこの気持ちは、日に日に私の心の中で大きくなっていきました。その時の心境を語る資料が、実は私の手許にあります。「退団届」です。それを書いた時から、今日まで誰にも手渡すことなく机の引き出しの一番奥に大切に保管していたのです。今、封を切って、当時の心境を思い出してみようと思います。その前に前文を引下にあげてみます。

 

『-退団届-まことに勝手ながら応援団を退団させていただきたいと思います。つきましては、応援団の練習を始めて一週間そこそこで、このような決心をしましたのは、まことに根性のない駄目な男だと思っています。最初応援というものは、格好がよいものであこがれていたのですが、日がたつにつれて苦しみだけになりました。毎日練習が終わって下宿に帰ってただ寝るだけ、そして朝早く起きることもせず、このような生活を毎日続けていくことに耐えられません。また、今後長く続けられる自信もありませんし、早く心を決めた方が、ご迷惑をかけることも少ないと考えました。以上簡単ではありますが今の僕の心境です。』

 

私は、この時の心境を一笑にふしたり、否定したりはしません。なぜなら、この決断が、自分の大学生活を左右することになったからです。こんな私が、今応援団をやり通してこの原稿を書いているのです。自分でも信じられないくらいですし、すばらしいことだと思います。自分が応援団生活で得た数え切れないくらいの多くのものを、後輩達がまた同じように獲得してもらいたいと思います。10年間は、一区切れでありますが、同時に未来へ続く出発点です。

 

(昭和49年12月発行「剛毅」10周年記念特別号から)

(写真は昭和48年12月13日:第5回演武会にて)


第38回 今は辞めるわけにはいかない 不器用な自分

 

小学生のころ、単行本で出ていた「嗚呼、花の応援団」を見て、応援団とはああいう無茶苦茶なことするのだと幼心に思っていたが、面白いと読み漁ったいた。中学校の頃の体育大会では、応援団は見ずにチアガールだけしか見ていなかった。高校生になっても体育大会での応援団だけだったが、中学校よりはきつい練習をして凄みもあった。声も潰すものもいた。でも体育大会の団長になると大学に落ちるというジンクスがあったから、別段、応援団をしたいとも思わなかった。

このように、本当の応援団に接触しなかったため、生協前の勧誘に出くわした時に、どういうものか興味があったし、1か月だけやってみようと入団した。今では苦しい練習が続き、家に逃げ帰りたい心境であるが、惰性で応援団練習に取り組んでいる。今は惰性でいかないと応援団を辞めてしまうかもしれない。中学の時から柔道の練習も高校の勉強も惰性でやってきた。応援団に入って性格が変わった。柔道をしている時は密かに蔭で練習をやるのが好きだった。知らない相手とやる時のためには、日々暗い練習をしなければならなかった。応援団では、自分を表に出して明るく活動をしなければならない。今は応援団を辞めるわけにはいかない。途中で辞めるほど器用じゃないから…。

 

(昭和59年9月発行「剛毅」20周年記念特別号ウルタン16から)

(写真は昭和59年8月:夏合宿にて)

 


第39回 優しさに包まれた私…私が「優しさ」が持てるように

 

優しさ…とは、何と温かく、柔らかい響きを持ったことばであろうか。

最近、私は「優しさ」という言葉を考えると、自分がどれだけ多くの人の「優しさ」に包まれているかということに気づくのである。まず第一に、思い浮かぶのは家族の事、肉親の愛情はとても言葉では言い表せるものではない。次に友達。少し元気がないとすぐに「どうしたの?」と声をかけてくれる。そして忘れてはならないのが応援団なのである。

幹部の方に、二年生の方に、一年生のみんな…それぞれがそれぞれの立場からいろんな優しさをのぞかせる。まさに私は、人々の優しさに守られながら生活を送っているといっても過言ではない。

対して、私自身はどうかというと、恥ずかしいよりほかにないように思う。応援団に限ってみても、皆の優しさを踏みにじるようなことだけはしたくないと思いながらも、ついつい顔を出す怠惰や甘え、ぐち不平が出てきます。短気な私は、心もぎすぎすになりがちで、精神的余裕などからは程遠い。精神力や気力などといったものを要求されるこの応援団にあって、マネージャーがこう精神力が弱いのであれば、どうしようもないではないかといつも反省ばかりである。がらりと性格は変わるとは思われませんが、こう書くことでせめて良い方向に導くしるべとしましょう。いつまでも、あたたかく柔らかい陽だまりのような「優しさ」を心の中に持ち続けたいですね。

 

(昭和55年10月発行 ウルタン12号から)

(写真は昭和55年7月:インカレ遠征-福岡にて)


第40回 雨にたたられ 幹部の小言 辛いは二回生

 

その時、私は降りしきる雨の中にいた。学生服はもちろんのこと、カッターシャツやその下のシャツ、パンツに至るまでグショグショになりながら、それでもじっと立っていた。博多駅からバスに乗り九州大学前に降りた直後から雨が降りだしたのである。せっかく二回生としてインカレに燃えていたのに、雨で落ち込んでしまった。でも、それでも引くに引けない熊大応援団だ。こうなれば、思い切り大声を張り上げて燃え尽きようと頑張った。とにかく、今年は雨が多くて応援よりも移動に多くの時間を費やすために、団員の意気がなかなか上がらなかったというのが実感である。幹部からは夜毎、小言を言われるし、かっといって二回生だからだらける訳にもいかず、中堅の辛さをひしひしと感じたのが今年のインカレだった。

 

(昭和55年10月発行「剛毅」ウルタン12から)

(写真は昭和55年7月:インカレ遠征-福岡にて)