追 悼 の 言 葉

応援団OBの皆様にとって、人生が長くなれば長くなるほど喜びや悲しみを増えることと思います。これまで、掲示板で追悼のメッセージ等を頂いていました。でも掲示板では、次から次に連絡が入り込んでせっかくのメッセージも埋没します。そこで、この「追悼の言葉」ページを新設し、故人への尊崇の念を表し続けたいと思います。


2023年(令和5年)12月 ご逝去  高橋敬一氏(8代)

(長谷政晴)

1月15日「高橋が死んでしまった」という中野からのメールに絶句しました。彼は活水女子大学を定年退職後太宰府の福岡女子短期大学に講師として週3日勤務していました。長崎の自宅から、太宰府のアパートに週毎に単身赴任しており、そのアパートで昨年12月15日に急死したとのことでした。

ちょっとにわかに信じられませんでした。昨年の0B会前に出欠の葉書を電話で催促すると、元気な声でした。「今年はちょっと行けない」「じゃあ今度、中野と3人で太宰府で飲もうか」という会話が最後になりました。

まじめにこつこつと努力し、ユーモアのある男でした。1年の頃の思い出が蘇ります。和田さんに豊津高校で教えを受けて、あこがれの熊大応援団に入団。鼓手として、先輩方の指導のもと血豆を作りながら練習していました。合宿の打ち上げでは「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に~」と小柳ルミ子の「私の城下町」を歌っていた高橋でした。この3月には長い間の勤めを終えて奥さんとゆっくりしようと思っていたであろう彼の人懐っこい笑顔が浮かびます。

大学を卒業して昨年までずっと国文学の研究を続けて、苦しいこと嬉しいことがいろいろとあったと思います。いろんなことをもっともっと話したかった。

今頃は和田先生や先輩後輩達と空の上で談笑しているでしょうか。心からご冥福をお祈りいたします。2月17日に長崎の自宅に弔問に行って参ります。 

 

いつも笑顔だった。酒を飲んでも楽しい仲間だった。冷静に話をする寡黙な面もあった。でも、飲みつぶれると「私の城下町♬」を歌いだし、みんなを楽しませてくれた。

(山崎公任)

中野君から高橋君が亡くなったとの連絡、そして、長谷君からも・・・。なかなか出席できなかったOB会だけど、今年こそ会えるだろうと思っていたのに・・・、もう酒を酌み交わし語り合うことができません。

悲しいことです。昨年まで年賀状のやりとりで近況を確認していたので、年賀状を卒業した後、元気にがんばっているだろうと思っていました。長崎、大宰府と、その地に旅行等で行ったときは、ここで学生を相手にしてるんだと高橋君のことを思い出していました。

高橋君は穏やかで、後輩の話もよく聞いていたなぁ。

鼓手として練習に打ち込んでいたなぁ。

飲み会では、飲んで、語り合っていたなぁ。

林先輩たちの所によく集まってみんな騒いでいたなぁ。

高橋君作詞の学生歌の披露、次々と思い出します。そして、「私の城下町」も・・・。高橋君から頼まれて小柳ルミ子さんの鉛筆画をプレゼントしたこともありました。

高橋君、「山ちゃん」だよ!

OB会で君に会えないのはとってもさびしいけど。

君との思い出をみんなで語り合うよ。

心からご冥福をお祈りします。 

(村瀬弘幸)

50年前、私は熊大(応援団)1年生で、高橋先輩は2年上で幹部=統制長でした。日々の厳しい練習に辛いことも多々ありましたが、練習を離れれば、何時も優しく声を掛けていただき、激励していただきました。

その後、私も2回生、3回生と進級いたしました。当時の応援団も団体運営が厳しい局面が多々あり、苦悩する時もありましたが、真摯に相談に乗っていただき、何とか乗り越えることができました。 

ご卒業後、昭和57年に長崎市内の活水女子大学に赴任され、長崎地区の応援団OB会にも度々参加され、交流を深めてきました。仕事や職場が厳しい時に、会食をお願いし、元気と勇気を戴くこともありました。ここ3年ほどは、新型コロナの関係もあり、お会いしておりませんでした。これから懇親の再開をと思っておりましたので、今回の訃報はとても残念でした。あらためて、高橋先輩のご冥福をお祈り申し上げます。 

長崎の街の長く住み多くの友に囲まれて、大学で教鞭をとっていた。応援団仲間と長崎の街で例会にように飲んで旧交を温めていた。

(林和徳)

私より二代若いのに突然死とは・・・

どんなに「良い人間」であっても死ぬときは死ぬ。

それは変えようのない世の摂理でどうしょうもないルールと改めて教えられた。最後に会ったのはいつのOB会であったろうか。二度とOB会で会えなくなったのは残念である

心より冥福を祈ります。 

(荒木富久雄)

高橋先輩、思いがけない突然の訃報に驚いています。

先輩の思い出で真っ先に思い浮かぶのは、飲み会で先輩が歌われた小柳ルミ子の「私の城下町」です。場の雰囲気を楽しくしたものです。応援団の悩みや愚痴に真剣に答え、励まし、指導していただきました。 

先輩の言葉には教養と優しさが溢れていました。演武の雄姿を今でもしっかり覚えております。早朝から、先輩の下宿でおにぎりを作って食べて、ボシタ祭の神輿担ぎのバイトに一緒に行きました。

豊津高校出身だけどおごることもなく、親しみやすい先輩でした。ご卒業後は短大に就職をされてすごいなと感心しました。太宰府の短大にお勤めの時、「鬼すべ神事」に呼んでいただいて、遊びに行ったことも懐かしく思い出されます。

OB会で、会えると思っていたので残念です。長崎の話や最近の学生気質などお尋ねし、お話しをしたかったです。

 真面目に一生懸命に生きてこられたその生き方は私の人生の道標の一つでもありました。先輩に負けないように誠実に生きていこうと思います。 心からご冥福をお祈りいたします。

(中野和夫)

遅れてきた寒中見舞いはがき…差出人は高橋の奥さん、一瞬嫌な予感がする。裏面に見ると、高橋の急死の連絡だった。長崎から福岡へ講義の出張をしていることは知っていたが、いつか飲もうと思いつつ、なかなか連絡もせずに2,3年が経過していた。もう二度と一緒に酒を酌み交わすこともできない。もっと話をしたかった。もっと一緒に飲みたかった。

日頃から相手の気持ち考える優しい男だった。飲むといつも陽気になる。皆から鋭い突っ込みを入れられても笑って場を盛り上げていく。

卒業してすぐに大宰府の女子大の講師になった。当時はみんな若かった。福岡在住の応援団OB総勢10人くらいで高橋のアパートに出かけ一晩中飲んだ。ちょうど大宰府天満宮の新春恒例の鬼すべ神事の時だった。布団を取り合って寝た。

結婚式は福岡市の天神にあるカトリック教会で行われた。幸せそうな二人だった。教え子との結婚でみんなから冷やかされていた。

同期の中では一番苦労したと思う。鼓手として夜の練習のあとも特訓をしていた。でもその弱みはあまり人には見せなかった。専門の国文学の研究も真面目だった。酒に誘っても「勉強中」ということあった。その時も「付き合いが悪い」と冷やかされていた。みんなから愛されていた。

そんな高橋との接点が最近少なくなっていたことが残念だ。

俺も高橋のことを思い出すから、高橋も俺たちのことを忘れないでくれ! 

惜別の歌

遠き別れに 耐えかねて

この高殿に 登るかな

悲しむなかれ 我が友よ

旅の衣を ととのえよ

 

(江藤浩之)

高橋君の訃報に接し、ただ残念でなりません。1回生の時の演武会。私は旗手で、鼓手の高橋のバチさばきをずっと見ていた。あの時の君はとてもカッコよかった。今も眼に浮かびます。

高橋の好きな小柳ルミ子が活躍していた頃、藤正樹という歌手がいた。「彼は高橋か江藤に似ている。」と、口の悪い先輩にいじられたことがある。

長谷君から訃報を聞いた数日後。テレビのBSの番組を見ていたら、滅多にテレビには出ない藤正樹が出ていた。思わず見ていると、高橋の顔に見えてきて涙が出た。もう会えないと思うと寂しくてたまらない。心からご冥福をお祈りします。

(今村美樹夫)

同期の高橋君の急逝の報に接し、ただただ驚きと寂しさで一杯です。思い起こせば昭和46年(1971年)の春、新入生勧誘で先輩に誘われ入団し、あの素敵な男くさい部室で会ったのが始まりでした。

高橋君は太鼓の担当で、鮮やかなバチさばきで競技中の選手と共に演舞している団員をも鼓舞してくれました。時には血豆がつぶれて指から血を流しながらも頑張っていました。

我々第8代は最終的に7名でした。久しぶりに当時の写真をめくってみました。第5回演武会では熊本大学学生応援歌(我が熊大)と惜別の歌を統制長として演舞している元気はつらつとした姿が残っていました。それから半世紀が経ってしまいました。人生百年時代に少し早い気もしますが、高橋君自身は精一杯の一生を送ったのだと思います。本当にご苦労様でした。こころからご冥福をお祈り申し上げます。

(河村久幸)

新年早々、中野君から「第8代統制長の高橋敬一君が昨年12月15日ご逝去されました。」とメールをもらい愕然としました。

私の1年後輩で応援団に入団。1回生の時は鼓手長という重大な仕事を任され、手に血豆をつくり夜遅くまで練習し、期待に応えようと頑張っている姿が印象的でした。3回生では、責任感の強さ、部下からの信頼の厚さを買われ、第8代統制長に就任。応援団員の要として応援団を束ね活躍してくれました。本当に感謝いたします。

 コンパでは、いつも酔えばニコニコし愛嬌のある顔をして「河村さん~」と近づいてきて盃を傾けてくれました。相手の良いところを見つけてそこをいつも褒めていたように思います。もっと酔えば、「格子戸をくぐりぬけ、見上げる~~」とお決まりの歌を4年間歌い続け皆を和ませてくれました。

OB会にも、あまり参加できなかったようですが、今から時間もでき参加できるようになり一緒に飲めると思っていたのに残念でなりません。心からご冥福をお祈りいたします。

 

(福岡潤)

後輩のこのような訃報は堪えます。君は自由闊達でユーモアに富んだ青年だった。ご冥福をお祈りいたします

 

(戸上勝喜)

1月16日に中野さんから「8代統制長、高橋さんが12月15日ご逝去されました。出張先の福岡で急死」…とのメールがありました。高橋さんは1学年先輩で、色々な相談も親身にそしてにこやかに対応していただいたことが記憶に残っています。飲み会では小柳ルミ子の「私の城下町」が十八番で、テレビ等でこの歌を聞くたびに顔を思い出します。また、社会人になってまもなく勤務先近くの太宰府にあるアパートに大勢で押しかけ、久しぶりに応援団風飲み会したこともありました。ちょうどその日が太宰府天満宮の「鬼すべ神事」(1月7日 )で、今でもテレビ放映があれば懐かしく思い出されます。最近はOB会でお会いできてなく、このままお別れすることになり残念でなりません。 心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

(佐藤又次)

高橋先輩の訃報に驚いています。数年前長崎で、酒を酌み交わした時、「福岡の大学に通っているけど、運転免許証を返納しようと思っている」とおっしゃっていました。毎年の年賀状に、奥さんと高橋さんのイラストとコメントがあり、ほっこりしていました。謹んでお悔やみ申し上げます。

  

(中村泰博)

高橋先輩には毎年年賀状をお送りしておりましたが、今年のお正月に寒中見舞いのお返事を頂いた際には、非常に残念でなりませんでした。

高橋先輩には、20年ほど前、私の妻が図書館司書の国家資格を受験する際に、当時勤務されていた活水大学まで押しかけ、受験する際の準備や心構えについて優しく、親身に相談に乗って頂き、また、助手の方にもご協力いただいて、論文を書く際のポイントや押さえるべきキーワードなど様々なアドバイスを頂きました。その後、妻はなんとか無事試験に合格できました。先輩には、夫婦ともどもお世話になり感謝の気持ちでいっぱいです。

長崎在住の応援団OBが集まった懇親会でも何度もお会いして、楽しいお酒と陽気な歌で、べろべろになるまで飲んでおられたのが、今でも忘れられません。コロナの影響で最近は会うことがかないませんでしたが、まだまだお元気でしたのでそのうち会えると思っていましたので、なんとも言えない気持ちです。心からご冥福をお祈りいたします。 

 

〇大学一年の独白 応援団剛毅URUTAN3(高橋敬一記)

応援団生活を始めて3カ月が過ぎた。その中で自分が得たものと言えば一体何であろうか。毎日毎日の練習の苦しさばかりが心に浮かんでくる。そして何んで自分はこんな苦しさを感じなければいけないのだろうといつも考え続けてきた。

応援団というカッコのよさに惹かれて入団したもののカッコのよさなど少しもなく、汗を流し泥にまみれての練習ばかりの毎日であった。それで、一度は挫折しかかった。

しかし、それを自分の甘えとして応援団を続けるように勧めてくれた先輩、今考えると感謝しなければいけない。そして、これからは自分に甘えることなく強くならなければならない。それが、短い応援団生活の中で感じたことであり決意である。

また、これからも先と同じように苦しい毎日が続くだろう。しかし。この苦しさを乗り越えた応援団の先輩たちがいるのは心強いし、自分もやり抜こうと決意を新たにした次第である。

 

〇大学二年の独白 応援団剛毅URUTAN4(高橋敬一記)

人間は日々刻々と進歩しなければならないのです。

昨日のままであったらいけないのです。

一年前の自分と今の自分は確かに違っているのです。

それが進歩なのかが疑問なのです。

最初の頃に自分は必死だったのです。

自分自身に物足りなさを感じていたからです。

今の自分は……

「どうしたのだ、頑張れ」と心の中で一生懸命叫んでいるのが聞こえてくるのです。

 自分のために何かをしなければならないのです。

 

〇大学三年の独白 応援団剛毅URUTAN5(高橋敬一記)

青春とは何でしょうか

友と心を打ち開けて語らい、酒を酌みかえし歌をうたった夜に、心の底から起こってくるあの喜びは何なのでしょうか。

毎日毎日、練習の行くことの辛さ厭さ、練習の始まりまでの気持ちが滅入る索漠感がある。その気持ちを、応援団を知らない友達に打ち開けた時の友の驚き…「それなら何故行くのか?」という友。私は何を求めたのでしょうか。

私は「心の故郷」が欲しい。応援団がどんなに苦しくとも辛くとも、いつもやさしい心温かく迎えてくれる先輩がいる、同輩がいる、後輩がいる。そんな集団が私は欲しかった。そんな集団入りたかった。熊大応援団には、それがあった。

人生のむなしさを語って何になろう。過去ばかり振り返って何になろう。昔日の応援団にあった。そして今ここに応援団がある。

 

〇大学四年の独白 応援団10周年記念誌(高橋敬一記)

「退団届」

まことに勝手ながら、応援団を退団させていただきたいと思います。つきましては、応援団を始めて一週間そこそこで、このような決心をしたのは、まことに根性のない駄目な男だと思っています。最初は、応援団というものは、恰好がよいもので憧れていたのですが、日がたつにつれて苦しみだけになりました。

毎日練習が終わって下宿に帰って、ただ寝るだけ。そして朝早く起きることもせず、このような生活を毎日続けていくことに耐えられません。そして今後長く続けられる自信もありません。早く心を決めた方が、ご迷惑をかけることも少ないと考えました。

以上、簡単ではありますが今の僕の心境です。

私は、この時の心境を一笑にふしたり、否定したりはしません。なぜなら、こんなに悩んだ自分が、今応援団をやり通して、こんな原稿を書いているのです。自分でも信じられないし素晴らしいことだと思います。自分が応援団生活で得た数えきれないくらいの多くのものを、後輩たちがまた同じように獲得してもらいたいと思います。 

十年は一区切りでありますが、同時に未来に続く出発点でもあります。今後の応援団の発展を心から願ってペンを置きたいと思います。

 

追悼文集作成にあたって

高橋敬一君  また会いたいね

君と別れをしなければならない

応援団HPに 追悼のことばが 溢れてきた

このボクたちの想いを 高橋君に伝えたい…

その気持ちで この冊子を作りました

高橋君が剛毅の寄稿した文章も 読み返しました

君の真面目さ 素直さ やさしさが感じられます

ボクが応援団を辞める と言ったときも

君は優しく 「辞めるなよ」とつぶやき ボクを救いました

何でも 相談したくなる男でした

残念ですが しばらくは 僕たち心の中で

 

生き続けてください           

               文責 中野

 

高橋敬一君  また会いたいね

君は僕たちの心の中で 生き続けているよ 

 

 熊本大学応援団OB会の仲間より

         (令和6年)2024年2月17日

 

 

  (高橋君宅を訪問し君に捧げる)


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2021年(令和3年)10月 ご逝去  眞鍋伸穂氏(3代)

(追悼の言葉)

久しぶりにパソコンを開き「応援団HP」を見たら、眞鍋先輩の訃報がありました。茫然とする中、改めて五十年余を経た時の移ろい様を思い知る心地がいたします。
屹度、眞鍋さんは、ご自身が、草創期の熊大応援団で過ごされ積み重ねられた日々の地道な頑張りと、今日も尚、脈々と続く団の姿を糧として、精一杯、力一杯人生を歩まれ見事に生き抜かれたことでしょう。心より冥福をお祈りいたします。


2018年(平成30年)5月 ご逝去  三小田啓治氏(7代)

(追悼の言葉1)

三小田先輩の訃報に接し心より哀悼の意を表します。応援団在籍中はもちろん、卒業後も福岡市内というエリアが同じであり、一緒に飲む機会もあり、とても懇意にさせていただきました。ビアガーデン・スナック等に行き、はしごをしたこともありました。中洲大通りで武夫原頭を肩を組み踊ったことも思い出されます。また、教育関係者の共通の知人も多数出来ていました。その知人から三小田さんの管理職として奮闘ぶりや三小田さんの持て生まれた明るさで、楽しい学校になっていることも聞かされていました。本当に残念です。心より冥福をお祈りいたします。

(追悼の言葉2)

葬儀に参列して一番感じたことは、三小田君の応援団愛の深さでした。奥様の挨拶、お嬢さんのとの話、導師様の法話、送別の言葉すべてに応援団の話で一杯でした。そして、奥様とお嬢様から「是非、『武夫原頭に草萌えて』をお願いします、主人も一緒に歌いますから」と依頼がありました。三小田君がいつも応援団のことをいつも周りの人に話していたからだと思いました。三小田君は声が応援団イチ大きくて、体もデカくて、心もデカくて、正義感の強い男らしい男でした。一方、皆を楽しませてくれて、本当に愛されてました。あなたの仲間だったことを誇りに思います。ありがとう三小田君。三小田家の末永いご多幸を祈念し、フレー、フレー、三小田!



2018年(平成30年)4月 ご逝去 真藤浩隆氏(15代)

(追悼の言葉)

本日(4月19日)第15代目眞藤浩隆君の葬儀に参加しました。葬儀会場は彼が勤務しておりました長崎南山学園と関係が深く学校の隣接敷地にあり、多くの教職員、生徒、OBの参列があり、生前における故人の活躍、人柄が偲ばれました。4月2日直腸がんの手術が成功して、順調な回復で、ゴールデンウイーク明けには職場復帰の意向でいたところ、先週の金曜日から突然容態が悪化し、透析を試みたが、昨日未明に逝去されたとのことです。

昭和57年に長崎南山学園に採用され、36年の勤続、応援団の顧問もした58年の生涯でした。ご遺族も学校関係者も突然の死であったため、深い悲しみにありましたが、葬祭場を出た霊柩車が学校の正面玄関に廻り、待機していた大勢の在校生や教職員、保護者などから見送られるシーンもあり、尊敬される教員であったことを痛感いたしました。

あらためて、眞藤浩隆君のご冥福をお祈り申し上げます。


2018年(平成30年)1月 ご逝去 福崎誠氏(18代)

(追悼の言葉1)

葬儀に参列して参りました。ご家族の悲しみはいかばかりかと拝察いたします。謹んでお悔やみ申し上げます。年頭にいただいた年賀状には「今ゴルフにハマってます」とあり、いつもと同じ穏やかな新年を迎えられたと拝察しましたが、1月4日の夜、突然くも膜下出血に襲われ、治療も間に合わなかったとのことです。式の間、祭壇の遺影を私はずっと見つめていました。お嬢様の入学式でしょうか、満開の桜を背にあの頃と同じ穏やかな微笑を浮かべる福崎君の姿がありました。まだ中学生の二人のお嬢様、最愛の奥様と共に、愛情に満ち溢れた素晴らしい家庭を築かれたことは、ご家族のお別れの言葉から窺えました。ご本人もご家族もさぞかし無念であったことでしょう。今はただご冥福をお祈りするばかりです。

(追悼の言葉2)

突然の訃報で、言葉もありません。福崎君とは、麻雀、パチンコ、ボウリング等々、原付バイクで大学周辺をうろうろしながら、よく遊んでいました。煙草を吐いて、ニコッとする笑顔が思い出されます。洋楽が好きで、教えてもらったポールヤングやシンプリーレッドは、今もよく聴いています。

定年でもして、のんびりできるようになったら、そのうち会えるかなぐらいに思っていました。もう会えないんですね。残念です。心からお悔やみ申し上げます。 



2017年(平成29年)6月 ご逝去 副島靖英氏(初代)

(追悼の言葉1)

副島先輩の通夜、葬儀に行ってきました。葬儀では団旗を会場入り口に掲げさせていただきました。奥様他親族の方々に「この団旗のデザインは副島先輩作です。」と伝えると大変喜んでいただきました。副島先輩の大きさを我々は応援団の中でしか知りませんでしたが、今日教師としての偉大さを初めて知った気がしました。応援団の学生生活で培われたことを、教師になられて実践され、先輩の宝物は教え子であった様です。生涯現場一教師として教え子に立ち向かい絶対逃げなかった姿がそこにありました。男の生き方として羨ましさえ感じました。

 

(追悼の言葉2)

副島先生は、教育に全身全霊をかけてこられた求道者のような先輩でした。「国語」の教師には、日本語という言葉の教育だけでなく、言葉を通して日本人の道徳観・倫理観をも教えることがも求められています。

先生の教育者としての立場は、応援団活動の中と全く同じで、常に女房役に徹しておられたように思います。同じ教員の道を選んで、先生の真似をし、追いつきたいと願ってきた私でしたが、ついに足下にも及びませんでした。ゆっくり日本の教育について、お話を伺いたかったです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(追悼の言葉3)

副島先輩の葬儀に参加して、改めて先輩の人としての器量に大いに感ずるところがありました。通夜では、同僚だった先生方もたくさん見えていましたが、それ以上に教え子さんが沢山来ておられました。おそらく先輩が初任の頃の教え子でしょうか、相当年配の方々が「教え子です」といいながら、連れだってお参りされていました。生徒とともに日々奮闘され、特にいわゆる「やんちゃな生徒たち」としっかり向き合われてこられました。葬式では、生活指導の研究会を立ち上げて若い先生方をリードされていたことも知りました。生徒や保護者以外にも、多くの人と沢山の実りある関係を築いてこられました。苦しいことも多かったと思いますが、あの笑顔と輝く瞳で、そのときその時をしっかり生きてこられたことが偲ばれ、本当にすごい先輩だったとの思いを強くした次第です。多くの方々が先輩との出会いを忘れ得ぬものとして大事にされていると感じました。今にして思えば、50周年記念演武会を先輩に見せることができて本当に良かったです。有り難うございました。ご冥福を心からお祈り致します



2015年(平成27年)10月 ご逝去 藤川勇誠氏(19代)

(追悼の言葉1)

藤川君のご逝去に接し、あまりに突然のことで残念でなりません。ご家族の皆様の心中を思うとお慰みの言葉も見つかりません。藤川君が鼓手の練習を頑張っていた姿、寮の部屋で堀尾君たちと楽しく過ごした時間、酔っても覚めても純朴で誠実だった人柄を思い出しています。 卒業後ずいぶん経って、藤川君が勤めていた会社を辞めざるを得なくなり、相談を受けたことがありました。その時に力は貸せなかったけれども、学生の時と同じように話しができたことがとても嬉しかった。しかし、もう話すことができないとは。まだ気持ちの整理がつきません。心からお悔やみを申し上げます。

(追悼の言葉2)

応援団時代のアルバムを見ています。藤川君は笑顔です。藤川君のたたく太鼓の音、バチの音がよみがえってきます。藤川君の純粋で優しい語り口調が懐かしく思い出されます。藤川君のお陰で応援団を続けることができました。来年のOB会で会いたかった。残念でなりません。

 

(追悼の言葉3)

藤川君が亡くなったとの知らせが届きました。実家で農作業中の事故だったようです。2年前のOB会で再開したのが最後になってしまいました。来年のOB会には、参加してもらおうと思っていたのに…。連絡を受けて以降、純朴な藤川君の姿が思い出されてなりません。今はただ、ご冥福をお祈りするばかりです。安らかにお眠りください。 



2015年(平成27年)2月 ご逝去 佐村輝男(4代)

(法要に出席)

野村先輩、林先輩、河村、長谷君4名で。昨日(3月29)佐村先輩の仏前お参りに行ってきました。49日の法要のあとご多忙の中1時間程度思いで話をさせていただきました。奥様と話がゆっくりできてと思いましたのは、佐村先輩の一生は66年間でしたが、充実した密度の濃い人生を送られ平均寿命以上の人生だったと思いました。行って本当に良かったです。安らかにお眠りください。

 

 (法要に寄せて)

佐村先輩のご仏前お参り、どうしても都合つかず御無礼します。よろしくお伝えください。和田先輩のご葬儀て久々振りにお会いし、声を掛けて下さったのに側に寄っての話ができなかった…。思い出は、藤崎から一緒に屋台を押して帰ったことです。「梅と兵隊」を唄いました。


2013年(平成25年)12月 ご逝去 内田清(6代)

(追悼の言葉1)

内田清さんのお兄さんから悲報を受け取りました。
内田さんは昔の懐かしい思い出話をするなど穏やかの日々もありました。平成24年のOB会当日には河村会長と電話で来年のOB会には是非参加したいと話されていました。OB会で会えることを楽しみにしていましたが残念です。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

(追悼の言葉2)

内田君、安らかに・・
生産機械科でも同窓の君の訃報に接し、只々沈んでおります。白川の畔の下宿屋で語り、飲んだことが思い出される。犬童さん、田尻、恒喜もおったよな・・
学生運動の最中に入学した我々「団塊組」は、真面目に明日を憂えたよな・・今宵は久し振りに40数年前の感慨に浸っております。 

 

(墓参り)

12/7,内田先輩のお墓参りに行きました。OB会から花束他お供えさせていただきました。
副島先輩、古賀先輩、茅畑先輩、野上先輩、林先輩、原田君、遠方ありがとうございました。
前原駅前にて集合し霊園まで内田先輩のお兄さんに案内していただきました。在りし日の故人の写真を見せていただき、ほんとうに楽しそうな写真ばかりで充実した中身の濃い人生だったんだなと感じました。お兄さん本当にありがとうございました。お参りできて良かったです。



2013年(平成25年)11月 追悼OB会 (故)和田英樹(初代)

H25/11.2、OB会総会、和田先輩追悼式、懇親会開催しました。今回は何時もより多数の参加ありがとうございました。
和田先輩の追悼式では、池田先生、顧問の中川先生、古賀先輩から追悼の辞をいただきました。
懇親会でも副島先輩、南先輩、上城先輩、桃坂先輩他お言葉を頂きました。改めまして和田先輩の偉大さ、和田先輩の男の世界、和田先輩の人間力の豊かさを話して頂き本当に私たちOB に勇気と感動を与えていただきました。開催して良かったと思いました。そして皆様のご協力ありがとうございました。


2012年以前の物故者

顧問  金守 新一 氏

6代    田尻 大    氏

14代  太田 丈志 氏

2代  原  誠  氏

6代  中川 恒喜 氏

24代   秋満 恭子 氏

5代    犬童 一昭 氏

14代  工藤 賢治 氏

29代  間宮 健次 氏